高校時代の恩師の朝会の時の話で、今でも思い出す問いである。
シンプルは危険だ、と言うことを伝えたかった講話の中で「学校に遅刻してはいけないのか」と言うこと1つとっても「本当に遅刻してはいけないのか」答えは出ない。
榧場先生との対話を思い出しながら、鈴木の脚色でお送りします。
理解や問いの立て方、想像力には次元、レベルがある
自分しかない次元の人がいる。
自分が中心であり、自分が思うようにしたいと言うことを心から信じているレベルである。
これは成長段階にある子どもである。子どもはそれでいいのである。
そして、他者が存在することを途中で知るのである。他者が自分とは違うことを考えている、と言うことに衝撃を受ける機会が思春期に訪れて、大人になるのである。
自分と他者と、たくさんの他者の思考がより集まった集団がある。その集団の思惑が重なって社会がある。
それが世界中に点在し、時に関係しあっているわけである。
それなのに世界共通のシンプルな答えが存在するわけないのである。
しかし、それを受け止められず、口当たり耳障りの良い、シンプルな回答を求めがちであるから気をつけよう、と言う話である。
遅刻する生徒を叱る教師
私の高校は当時、自由すぎて、授業に出たり出なかったり、遅刻する生徒もものすごくたくさんいるのである。10%くらいの人が遅刻していたのではないか、と思う。(勝手な印象です。)
私も、たまに遅刻していた。
ほぼ意図的に、今朝はまあいいかな、みたいな。河川敷でちょっと川を眺めてから登校したりしていた。
そしてチャイムがなっても校門の前を生徒たちがのんべんだらりと、歩いているわけである。
で、とある教師が全校集会で叱ったのである。遅刻してるのにのんびり歩いてるとは何事か、と。風紀が乱れている、みたいなことを言っていたような気がする。
それに対して、クラスの朝会で恩師が「あの教師は何もわかってない、言い換えれば馬鹿であることを露呈したのだ」と言い切って、また榧場先生、とんでもないこと言ってるな、と思ったのを覚えている。
学校に遅刻してほしくないのは教師が生徒を管理しやすくするため
教師は忙しく大変な仕事である。勉強を教えていればいいだけではない。学校運営をしっかりし、保護者へ対応し、有名大学への進学率を上げなくてはいけない(か、どうかは本当は誰もわからないけど、そう思っている教師はいる。)
これはこれで頭が下がる。大変な職業である。
だから、そんな遅刻とかで校門をいつ締めるか、とか注意するとか、めんどくさいわけである。
全校集会がいつまでも始まらない、とかもイライラするわけである。だから、さっさと並べ!と叱りたくもなる。人間だもの。そんなもんである。
誰もいなくても、並んでなくても、いない人がいても、朝礼を勝手に進めたらいい
しかし、叱って意味があるだろうか。
ちゃんとした全校集会にならなくてもいいのである。
ちゃんとしたとはそもそも何か?全員が並んで、きちんと校長先生の話を聞いているような式である。
誰も聞いてなくてもいいし、並んでなくてもいいし、誰かいなくてもいいのである。
ちゃんとした式を習ってやる必要などないのである。
そうしなければいけない、全校集会と言う式典とはそう言うものである、と言う教師の先入観にとらわれているのだ。
しかし、校長先生の話が面白ければ、勝手に聞くのである。
聞いた人はラッキーだし、聞けなかった人は自分の責任なのである。
自由と責任とはそう言うことで、誰かに強制されるものではないのである。
遅刻した生徒を叱ったら
もしかしたら、今日たまたま母親が病気していたのかもしれない。
初めての遅刻だったかもしれない。やむにやまれぬ事情で遅刻したかもしれない、それなのに叱られたらかわいそうだろう。
そして、叱る方もそんなこと気にしていたら、面倒くさい。いちいち一人ひとりの事情も把握できない。
それならば、叱る必要もないだろう。学校に時間通りにくる必要もないだろう。
自分の人生に責任を持つ、と言うこと今日学校に遅刻することで、自分が何を得て何を失うかを自分で考えることなのだ。
だから、遅刻を叱ることには有効性はないのだ。
だからうちの息子が学校に適当な時間に行っても、叱ったりはしないである。