人生の航海を進めるときに、
自分の真北、北極星が
人生哲学であり、その人が大事にする原理・原則である。
誠実でありたい、公正でありたい、慈悲深くありたい、
これらは時代や価値観が変わっても、自然や人間の原理原則に根ざした根源的なものである。
いつも北極星を見て生きていくことは、
すばらしく、確かなものである。
しかしである。
北極星を目指して進んでいくのだけれど、
北極星にはたどりつけない。
ものすごい高出力のロケットを開発しないと、北極星には到達出来ないし、
北極星をめざしてたんだっけ?となる。
完璧主義者は、がんばって北極星への到達を目指すが、
それは人間には不可能なのである。
北極星はたどりつけない。目指すべきシンボルとしてのありようである。
北極星はあくまで目指す方向性を教えてくれる指針である。
原理原則は、大きな人生の方向性を間違えないようにしてくれるけれど、
人間は、完璧に原則通りには生きられないし、
矛盾をはらんでいるし、途中で壁に阻まれたり、
怠惰だったり、いろんなことで挫折する訳である。
だから、宇宙の北極星は絶対的な方向ではあるものの、
あくまでたどりつけないシンボルである。
もっと具体的で、人間に到達可能な目的地を持つべきなのである。
人生の到達可能な目的地
目的地は、真北の方角にあるがたどり着くことができるのである。
北極星を見ながら進んでいけば、たしかにいつかはたどりつける場所を指定するのである。
慈悲深くありたいと願って生きていても、
誰かを恨んだり、憤りを感じたりすることはあるのである。
その時に、完璧主義者だと、
自分の原理原則と行動との矛盾に、よりストレスを感じ、思い悩む。
まずは身近な人に、自分の好きな3m以内の親近者たちに慈悲深くありたい、
ということからはじめたら良いし、
親しき仲にも礼儀あり、時には距離をとったり
完璧に慈悲深い親にならずとも良いのである。
たまには鬼ババになってもよい。
北極星だってあやふやなものである
人間が目指すべき、原理原則のメタファーとしての北極星。
しかし北極星だってあやふやなものである。
なにより北極星は昼の間は見えない。
そうすると誰しも、
あっちへふらふら、こっちへふらふら、
けれど、夜になって北極星を見れば、
「やばい、かなり曲がってた!あっちが北か」
とふらふらを、もう少しそっちへ差し向けることができる。
そういう程度である。
さらに言えば、なんと北極星すらズレていく。
そしてあまりにずれると入れ替わる。北極星は交代制である。
ここ1500年くらいの間、こぐま座のポラリスが地球の北極星を務めている。
その前は、こぐま座のコカブがBC1100〜AD500年くらいまで、さらにその前はC3000〜BC1100年までりゅう座のトゥバンという星が担当していた。
逆に西暦4000年くらいに、ケフェウス座のエライに交代する。
なんともブレブレである。
しかし、それが良い。真面目な昭和の長男諸君は北極星をめざし過ぎなのである。
北極星だっていいかげんなものである。