この写真は栃木の庭で小学生の時の私と妹を祖父が撮影したものだろう。
最近、詩、ポエムを解禁してちょこちょこ書いている。
詩的であるとはどういうことだろうか?
それは散文的であることの反対だろう。
詩的であるというのは「言葉が足りない」ということじゃないかと思う。
言葉が多すぎる
日常の暮らしの中で言葉が多すぎるのである。
さらにいえば「字」が多すぎるのじゃないかと思う。
説明も多すぎる。根拠もエビデンスも多すぎる。
言葉そのものが自然の何かを表現するために人間が生み出した概念だとしたら、それがすでに虚構である。
エビデンスや証拠も科学もすべては砂上の楼閣である。
だからそんなに言葉がたくさん書かれている事に意味はないのである。
たくさん説明され、あーだこーだと説明されても真実にはある一定以上は近づけないわけである。
寡黙な父親は詩的か
私はどちらかといえばしゃべり過ぎる父親だが、戦後生まれの自分の父親、さらに戦争にも行ったその父親まで考えると、家父長制の時代に「ペラペラしゃべる男はよくない」という考えはしみこんでいたのだろうと思う。
いつも仏頂面でイライラして、言いたいこともいえないでいた祖父はどんなことを考えていたのだろうか。
威張っているように見えて、実際は女性陣から煙たがられていた背中は詩的かどうか。
誰も周りにいなくなり、落ち葉を拾いながら暇そうにしていた。
言葉が足りないから、やはり詩的だったのではないかと思う。
説明はしないけど、勝手に自分の中のロマンを生きていたのだろうと思う。
足りない言葉の想像の余白、こころのヒダに染み入るのが、詩的である
無口でイライラする男性は、半分は詩的である。しかし半分は詩的ではない。
その分岐点は、足りない少しだけの言葉が「誰かの心に染み入るか」どうかである。
イライラする男性の言葉足らずな発言は、誰の心にも響かない。
言葉数が足りなくても、一緒に生きているパートナーたちに慈しみの愛情が伝わっていれば、きっと詩的な背中であり幸せだったんだろうに、と思うのである。