コンテンツそのものをどう面白くするか、というのをあれこれ考えて手を尽くすのが好きな人がプロデューサーであり編集者である。
もちろんそれも好きなんだけど、むしろそれを取り巻く枠組み、まわりの人たちをどう巻き込んでプロジェクトにしていくかが好きな人がいる。
外殻プロデューサーと、内面プロデューサーといったん区分けしたとする。
一人のプロデューサーは、もちろん両者を内在しています。どちらが強めか、という話です。
面白いコンテンツこそ正義、内面プロデューサー
内面プロデューサーは至極全うである。文化祭で自分の作品を仕上げて発表するのを楽しみにする感覚である。
ものつくりとして正しい。
そして実際はあれこれ、宣伝や仕掛けで工夫するよりもコンテンツそのものが面白いことが一番の近道だったりするのです。
だから正しい。
のだけれど。
外殻プロデューサー、知ってもらわないと意味がない
内面プロデューサーが言うことは当たり前なのだけれど、どうして外殻プロデューサーが生まれるのか?
アマチュアからものつくりをしていると、どんなにいいものをつくっても知ってもらえないとコピー同人誌を手売りで友達に売っている、ライブに友達を呼んでいる、感覚から抜けだせられない、という焦りなのである。
内面プロデューサーから見るとそんなことより、まず中身詰めてよ!と言いたくなるが、売り方、広め方ばっかり気にしているのが外殻プロデューサーである。
外殻でしっかりプロジェクトとして成り立たせれば(たとえばわかりやすく、大きな企業や大きなコンテンツとのコラボ決めました!みたいな話ね。)
みんなに知ってもらう、見てもらうきっかけになるのではないか?と宣伝こそが正義、と思っているのである。
外殻プロデューサーは寂しがり屋でお祭り好き
外殻プロデューサーはなぜ作品そっちのけでそういうことになってしまうのか?
それは「文化祭実行委員でみんなを盛り上げつつ自分が一番楽しんじゃう」という感覚なのである。
作家も含めていろんな人をつないで、一緒に盛り上がってみんなでハッピーになろうよ、っていうことなのである。
そうしたら面白いかな?
っていう仕掛けをいつも考えてるのである。
プロジェクトプロデュースとはそういうもんなのである。
みんなの誕生日パーティを盛り上げちゃう、そういう生来のプランナーなのである。
だから作品の内面を詰めることも、そのプロジェクトの一部ととらえているのである。
だから全体観も必要と思っている。
作家が頼りになるなら任せてしまって、自分はプロジェクト全体で足りてない部分に首をつっこんでいくのである。
そういう思考回路で動いている。
誰でも外に出て内に入る。
だれでも両面を持っている。
「やっぱり作品、コンテンツありきだな」と立ち返ったりするのである。
「いい作品だけど売れなかったな、やっぱり宣伝か」
寄せては返す波のようなもので両者を行き来するものなのである。
そしてらせん階段上にその人なりのプロデュース力というのを培っていくのだと思う。