「この記事は生成AIではなく、宣伝プロデューサーの鈴木が書いています」と頭がきや署名をつけるような時代になるだろうな〜。
macが登場した時に、デザインの現場は変わるとみんな予見したけれどでももっと緩やかだと思っていた。定規で真っ直ぐ線が引けるというのが技術だったが、誰でも線が引けるようになってしまった。
mac VS 紙に手書きのデザイン
それによって、急激にコンピューターでデザインする時代に変わった。今、手書きでデザインしている人はほとんどいない。しかし、手書きの良さは残っている。より味のあるその人にしかできないクリエイティブが残った。むしろ手書きであることはアートであり真似できないものとして大事にもなった。
ツールにはそういう両面がある。
生成AI VS 人間のデザイン
AIの登場で緩やかにクリエイティブの現場が変わると皆思っているけれど、macの登場と同じように急速に置き換わってしまうのだろうと思う。生成AIはそういったツールなのだと理解した。
あまり凝ったグラフィックを作る必要がない場合、もう生成AIでいいだろう、という使い方もあるし、人間がやったら膨大な時間のかかる繰り返し作業や、馴染ませる作業などを一瞬で終わらせてくれるAIによって、これまでなら面倒くさくてできなかった表現が可能になる。それにより画期的なデザインが表れるだろう。
また、何かを真似してデザインする、悪い言い方をすればパクるのがより簡単になる。AIに学習させてそれっぽく書き出すことが当たり前に行われるようになるだろう。
macの時には生き残った手書きデザインの領域も、生成AIには真似されてしまうだろうと思う。
例えば、行く必要のない旅行記ブログ生成
行ったことのない旅行写真や、旅行記を生成AIが作り出すことは容易である。それでブログなどのコンテンツ作りも可能だろう。アフィリエイトブログなどは生成しまくりで、インターネットにより大量生産のゴミが溢れることになってしまうだろうと思う。
そうやってお金を儲けようという人はいると思うので、それはそれでしょうがないことだけれど、インターネット検索が不便になって、きっとAIを使って、AIが生成したものは省いて、人間が書いた記事はどれか?を探しだすのかもしれない。
何もかもがdeepfakeになってしまったら、映像の価値が目減りする
画像、映像、文字、などデジタルデータの全てがdeepfake可能になってしまうので、コンテンツとして何を見せられても100パーセントは信用できない時代になってしまう。これまで映像で楽しむエンタメは不動の地位を保ってきたけれど、映像で見るという体験は価値が目減りすると思う。
その時に、
自分が本当に行動したこと、
行動した結果どんなことがあって、
どんな偶然の出会いがあって、
味わった空気や味、
どういう思いをしたか、
その場で起きた体験と「その瞬間」をより大事に感じるようになると思う。
思い出が毀損する時代
「その瞬間」と強調した理由は、
時間が経つと思い出とdeepfakeの映像による上書きがごっちゃになって、
記憶がハックされてしまう時代がその後きっとくる。
自分の思い出が本物の体験か、deepfakeなのかクロスオーバーしてしまって思い出の価値が目減りする時代が生きてるうちに来ちゃうんだろうな、と思うからである。