日記のデメリットは、自分らしさの罠に嵌まること。

写真を撮ることばかりに、一所懸命になって目の前の素敵な出来事に集中できないことありませんか?

SNSにアップして賞賛されることを目的に日々を生きている、というほどしょうもない人は、

このブログをよんでいただいてる人の中にはさすがにいないと思います。

しかし写真をあとで振り返りたい、という未来の自分のための記録として写真を一所懸命撮っている人はいるはず。

それよりも目の前の躍動感を味わうことを優先したほうが人生は楽しいと思います。

リハビリで、手帳と日記を封印中

一ヶ月ほど手帳を封印し、日記も書く分量を制限している。

手帳や日記が続かない、と悩んでいる方のほうがよく聞く。

なんとなく、手帳や日記を続けることの方が心と体の健康に良さそうな気もするが、

やはり物事には功罪あるのである。

何事も自分の今のコンディションに併せてバランスが必要なのである。

手帳や日記だってやり過ぎれば、毒になるのだ。

勉強するのは行動依存?

行動依存というものがある。

簡単にいうと繰り返し反復する行動であればどんなものでも依存症になる恐れがあるということである。

現実生活に役立つために、礼節をしり、健康に暮らし、勤勉に勉強する、これらも行動依存ではある。

しかし役立つ行動依存なので、問題にはなりにくい。

ただ、知識偏重の勉強の仕方が現実生活に問題を起こすことは想像にたやすい。

何事も予習、復習、勉強せずにはいられない、ということも問題なのである。

人生の予習復習の依存症

予習としての手帳、

復習としての日記、

一冊で両面兼ねている人も多いですが、

計画をし、それを完璧にこなし、日記で振り返りをし

悦にひたりたいのである。

さらに言えば、その日記を書き続けることにも満足感が得られる訳である。

これらの趣味、依存症は悪いわけではない。

良い習慣の一種でもある。

しかし、過ぎたるは及ばざるがごとしでありやりすぎ注意である。

気づくと、予定をつくること、振り返って日記を書くことにかなりの時間を費やし、今に集中する時間が減るのであっては本末転倒である。

手帳と日記を、奪われてから

毎日、所在ない日を送っている。

なんとなく、ふわふわしているような、どこかへ飛んで行ってしまうような気持ちになり不安である。

過去を気にすることで、自分をつなぎ止めることができる

昨日の自分と今日の自分が連続線上にあるか、

気になる、一貫性を持ちたい、

完璧にコントロールした人生を送りたい、という欲求が強すぎるのである。

自分を形作るものは、思考と記憶しかないからである。

だから大事だし、手放せなかった。

でも「自分ごと手放してもいいのである」と気づくと、

この自分をつなぎ止めることが、なんともバカバカしいことであったことに気づく。

昨日の私と、今日の私に一貫性なんていらない

自分とはこういう人である、という一貫性を貫きたいのはただのエゴの罠であり、

別に不要なことなのである。

体も心も、巡り入れ替わってしまうので、

存在としての同一性、一貫性ということを気にしてもしょうが無いのである。

思考や意識にいたっては尚更である。

今日も、明日も、自分が誰でもいいのである。

そう思うと、急に目の前の出来事が素敵に輝き出すし、

自分も生き生きとパワフルに生きられる。

今、この瞬間、目の前の人と思いっきり関わっていきたいと思うようになるのである。

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