競争はおもに男性心理だと言われているが、
おそらく自然の力、ホルモンの嵐により突き動かされるものだろう。
種の繁栄を狙うために組み込まれた機能なんじゃないかと思う。
だから理性で遠ざけようとしても、完全には遮断できない、あらがえないものの一種だと思う。
生まれた時からいろんな競争に巻き込まれるものである。
兄弟に始まり、学校も競争する場面はたくさんあるし、会社に入っても競争、独立しても競争。
とにかく競争と完全に離れることはできない。
ある程度、健全な競争が文明を進歩させてきたことも事実だろうし、
競争によってやる気を出すという場面もある。
競争があるから、知恵を絞らざる得ないということもあるだろう。
競争の軸は多用であるが、過疎りすぎると市場がない
自分の戦い方、居場所の見つけ方として救いがあるのは、
競争もまた多用であることであり、ほぼ無限の選択肢がある。
競争ということ自体が概念に過ぎず、
言葉遊びのようなものなので、
競争の渦中にいる人以外には大いに馬鹿馬鹿しくみえるものである。
だからこそ、やりようがあるともいえる。
参加者がほかにいない競争をつくっていくことが競争を省略するコツである。
しかしあまりに過疎な競争だと、市場が大きくならなくて食べていけない。
競争相手がいることで、市場が大きくなるからである。
自分がちょうど勝てて、ほかにも多少、競争相手が見つけられそうな市場、軸を作り出すことが肝要である。
ライバルがいると頑張れる
好敵手と書いてライバルだから、やはりそこにも競争がある。
ただライバルとなると、
単なる競争を超えて、
なにかそこに人生と友情を感じることもある。
そのライバルがいるから頑張れる、ということもあるからである。
その競い合いのおかげで切磋琢磨し、
努力できるということも事実である。
孤独なレースは続いていくので、
隣のコースを走ってる選手の息使いを感じるだけで、その孤独が和らぐのである。
たまには嫌いな人のことも考えてみよう
馬が合う、仲がいい親友。それでいてライバル、という関係もあるし、
どうも虫が好かない、大嫌いなんだけどどこかで気になってしまうという相手もいる。
そういう嫌いな相手のことを考えると、自分の問題が浮き彫りになることがある。
その人は自分に持ってないものを持っているからだったりする。
自分が抱えている密かな欲求を、そのライバルが体現しているのかもしれない。
その様子が自分の琴線に触れてしまって、どうにも腹が立つ訳である。
自分がやりたいけど心理的ハードルでなかなか出来てない事を、あっさりやってしまったりするところに腹が立つ訳である。
しかし、よく考えてみると、
誰しも同じような逆境は抱えている。同じようにそのライバルが苦手だと思っている課題を、自分はあっさりクリアしてしまっているかもしれない。
人によって何を課題と考えているかは違うのである。
そういう意味でも、鏡であることが多い。
そういう相手がいるから自分なりの戦い方を考えるきっかけになることは確かである。
たまには、そんなことを考えるのも悪くないのである。