仕事ができる人、できない人の違い、気になります。
できる人になりたい、皆さんそうお思いでしょう。
しかし本当にそうでしょうか。
仕事ができるとは「人の役にたつ」ことである
誰かのニーズに、正確に、素早く、コスパよく応えることができる人が仕事ができる人である。
上司のニーズかもしれない、部下のニーズかもしれない、クライアント、お客様のニーズかもしれない。誰のニーズでもいい。そのニーズに応えたときに、その人から「君は仕事ができる」という評価をもらう。
仕事ができる、とは他者からの評価である。
誰も見てないYouTube番組を毎日高速で編集して作り上げていても、仕事ができる、とは言われない。
ただの暇人の趣味である。
仕事ができないとは「人の役に立たない」ことである
誰かのニーズに、雑で、遅く、コスパ悪く、且つ応えられない人が仕事ができない人である。
誰のニーズでもいい、そのニーズに応えられない時に「仕事ができない」という評価をもらう。
仕事ができない、とは他者からの評価である。
仕事ができない理由
ニーズに応えようと思っているけど、応えられない場合、能力の適正、理解不足、鍛錬不足による実力不足である。ニーズに応えて、仕事ができる人の評価を貰いたいなら、勉強と鍛錬を続ける必要がある。
何事もある一定の練習量というのが必要だと思う。コスパ、タイパよく、勉強や鍛錬というのはいかない。
効率のいい修行というのは、矛盾した問いである。
コスパ、タイパとは消費者の発想であり、学習するもの、鍛錬するもの、修行するものは、消費者ではない。なので軸が間違っているのである。その進んでいく、学んでいく日々のプロセスそのものに修行の本質があるからである。
もう一つ、積極的に「仕事ができないを演じる」理由
もう一つは、誰のニーズにも応えようとしてない場合である。
または自分のニーズに応えようとしている場合に、仕事ができないという評価をもらう。
誰かの役には立ってないからである。しかし、もしかしたら自分の役には立っているのかもしれない。
会社のお金で給与をもらいながら、YouTube編集の練習を続けたら、会社からは何の役にも立たないが、自分はその能力でYouTubeの制作会社として独立して儲けようとしているかもしれない。
仕事ができないという評価は隠れ蓑である。
こういう仕事ができない人もたくさんいる。昼行燈と言われたりする。
仕事ができる人を目指さない方がいい
繰り返すが、仕事ができるとは、他者からの評価である。
仕事ができることを、自分の軸にしてはいけない理由がここである。
他者からの評価を軸にすると、自分は消費される。他者を中心に置いた人生になるからである。
自分の軸は、もっと大きな宇宙の真理、自然の摂理的なものに置くか、自分の中のものに置くのが良い。
「仕事ができない」と言われても自分の人生を送った方がいい
多少は、仕事をして他者に貢献しないと共同体の中で生活できない。
なので仕事はできない、と怒られつつも、最低限のことはこなしながら、淡々と自分の軸でもの作りを進めた方が豊かであり、また結局その成果がどこかで大きく花開いて、仕事ができる、とロングの時間軸で言われてしまうかもしれないけれど。
編集後記
次は富士山マラソンです。あと60日。
しっかりトレーニングして5時間切るぞ!
a new thing a day
ブドウを収穫しました。実家の庭で。すごい。