小暑、七夕、蓮始華。七夕の願いは本当に叶うか?

7月7日は小暑。夏本番である。

二十四節気と西暦について関係性が分かってなかったが、

7月7日に七夕、なのは日付がキーなので、西暦にならっている。

小暑は二十四節気なので現在も太陰暦にそって決めている。

太陰暦では、旧暦の六月一日の新月であり、それを西暦に置き換えて今年は7月6日である。

天の川を眺めていたであろう7月7日を旧暦でさぐると

2024年なら旧七夕、西暦8月10日である。

本日、7月11日は七十二候「蓮始華(はすはじめてはなさく)」である。

不忍池の蓮も、はたして咲いているだろうか。

昨年は浅草に事務所があったので毎週見に行っていたが今年はまだ見ていない。

早く行きたいなと思っている。

さて、西暦では過ぎてしまった七夕だが、その短冊の願い、

叶うことってあるんだろうか?

ところで、あなたは昨年、短冊に何を書いたか覚えてますか?

というところから話をはじめましょう。

あなたの願い?

七夕じゃないんだけれども

2022年の12月、今から1年7ヶ月前のメモに

「新しい水着、泳ぐ体」と書いてあった。

「あ、そんなこと書いたな〜」と記憶があった。

そして12月の段階ではそれは実現せずそのまま残してあった。

それから1年と7ヶ月間たって、

体は大分引き締まって、

週に5000m泳げる体になりました。

願い、叶ってます。

それも願い続けてきた訳でもなく

その後もすっかり忘れてて、

いろんな偶然を重ねた結果、

新しい水着もとっくに買ったし、

思ってたより泳げる体、作ってます。

泳ぎまくってます。

「あ、そんなのもいいね〜」と思いついた瞬間から、

私達はそこへ向けて行動してしまう、

引き寄せてしまうのである。

しかし願いが叶ったことに気づかない

たまたまメモが残っていたので振り返って

「叶ってたのね!」と認識出来たけれど、

メモが無かったら、当時そう思ってたことも覚えてない。

そんなもんである。

短冊に書いた願いを覚えていないから、叶ったかどうかも検証できないのである。

つまり、あなたも「こんな風になりたいな〜」

実は結構叶ってます。思えば叶います。

そして、叶っていたとしても

「あ、なんかラッキー」とその場で思うことはあっても

「前から叶えたいと思っていた、あの短冊に書いたこれが、今叶うなんて!」

と気づく人は、

すでにかなり、自分をコントロールできているスーパーマンである。

多くの人は、達成したことに気づけない。

願いの基本は自分に関すること

同時に、どんな願いでも叶うか、というとそういう訳でもない。

基本的なルールがあって、

「自分の行動、状態に関すること」

が叶いやすい。

「こんな自分になってたらいいな」

はどのくらいのタイムラインかは、

願いの強さ次第だが高確率で叶う。

かなわない場合は、その願いが本当は自分が望んでいないものなのかもしれない。

またはその願いの裏にある、

本当に叶えたい望みの方が叶っている可能性がある。

創作活動を始めたい(評価されたくないから創りたくない)→作り始めない

ということが成立する。

願いが叶ったからといって幸せとは限らない

創作を始めたくない、

というあなたの願いが成就している。

しかし、幸せではないですよね?

というように

願いが叶うことと、幸せかどうかは別なのである。

願いが叶って幸せになれる願いを先に立てる必要があるのである。

私は今から、14年前くらいに受けたセミナーで、強い願いについてのワークショップを受けて

その時に何の気なしに書いたいくつかの事がある。

当時は、突拍子もないものだったがおそらくその三つ、すべてを叶えることができた。

しかし、その中の1つは確かに当時の私は、

興味があったものだったんだけど、

それによって苦しんだことでもあった。

それが叶っても、むしろ不幸になってしまったんだと思った。

もちろんそこから大きな学びがあった。優しくなれたとも思う。

だから無駄では無かったんだけど、願いや望みには強いパワーがある、

あなたのを全然ちがうところへ連れて行ってしまうリスクもある。

だから、優しい言葉で、優しい気持ちで

自分の願いを立てる時間を大事にすることである。

他人をコントロールする願いは、叶いにくい

相手があってのことも叶いにくい。

なぜなら、相手との関係性で相手の行動を変えようというのは、

自分のコントロールの外だからである。

愛されたい、と願うのはかまわないけれど、

相手が愛するかどうかは、相手次第だからである。

しかし、望むパワーの強い人は

お互いに影響しあう。

なのであなたの願いが結果として、

愛されて成就するということもある。

親に対してずっとわだかまりを持っていた自分が

それを手放し変化することで、

自ら親を愛し、

親からも愛された、と気づき、実感できた、ということが起こりうるのである。