均がこれまで付き合った女性は二人。
高校時代に少しだけ付き合った人、
それから現在の妻、香織である。
自分は幸せに暮らしていて
満足している。
しかし、
どこかで、
他の人と付き合ってみたり
しなくてよかったのだろうか、
早計な決断だったのではないか、
と思ったことは何回もある。
その度に、
これは軽率であり、
道から転げ落ちる、
悪魔の囁きだと思う。
そういう「もし」は人生を
おかしくしてしまう。
なるべく波風立たせたくない。
人生は順調に進んでいる。
そう、均は思う。
知らない女性に会う、
ということに、
ひどく緊張している
自分に気づく。
ジェンダーレスを
叫ばれる時代ではあるけれど、
異性と接するのは緊張する。
職場には
女性は数人しかいなく
ほぼ毎日、
同性としか
コミュニケーションしていない。
定期的に連絡を
取り合うような
女性の友人も
もちろんいない。
女性と何の会話を
すればいいのか。
ましてや
はじめましての女性と
会話をしたのが
いつか、
もう思い出せない。
そして
はじめましてではない。
高雄、
つまり取り替えている今の
均にとって
妻を迎えに行くのである。
不安が押し寄せてくるが、
待ち合わせの
時間もまた押し寄せてくる。
「そうだった、
連絡先もわからないんだ。
遅れたらもっと大変なことになる。」
EV車のアクセルをはじめて踏み込む。
音もなく車が動き出す。
「そうだった、
こんなEV車の
SUVを
運転してみたかったんだ。
いい車だなあ。」
道に出て、
グッと踏み込むと
景色が伸びるような
感覚があった。
素早い加速のせいだ。
「EVはトルクがあるから
最初の踏み込みはゆっくり・・・、
最初の踏み込みはゆっくりだ。」
均は、駅へ急いだ。
駅に着いた。
通勤、通学に急ぐ人たちで
駅はまだ人通りが多い、
ターミナルの車よせに止める。
送りの車が
ひっきりなしに
寄せては返す。
車で駅まで
送迎している家族って
結構いるんだな、など
ぼーっと考えていた。
すると、
助手席の窓を
コンコンと叩かれた。
ドキッとして我に帰った。
そうだった、
奥さんを迎えにきていたのだ。
心臓の鼓動が早くなり、
動悸がする。
恐ろしくて、すぐには振り返れない。
またコンコンと
叩かれた
「ドア、閉まってるよ」
と外から女性の声がした。
ドアを開けるしかない、
決心してドアのロックを解除した。
ここまで来てしまったら、
もうやれるだけやるしかない。
「あ、ああ、ごめん」
声が裏返ってしまった。
高雄はこんな声は出さないかもしれない。
あたふたとしながら、
振り返った。
青いワンピースに
白いバッグを持った女性が、
真夏の日差しの、
眩しい逆光の中に立っていた。
ロックは解除したが、
女性は立ったままだ。
どうしたんだろう
と均は思って、
高雄のことを思い出し
ハッとする。
運転席のドアを開けて
急いで表に出た。
暑い太陽がジリジリと
全身を焼くので
汗が噴き出る。
もちろん、
暑さのせいだけではないが。
助手席側に周り、
ドアを開けた。
「どうぞ」
「ありがとう」
女性は微笑んで
助手席に座った。
均は静かにドアを閉めて
運転席へ戻った。
ハンドルを握ったまま、
声が出ない。
エアコンが効かないのかな
と思うほどに、
汗が溢れる。
何を言えばいいのか
考えるほどに
堂々巡りしてしまう。
変に喋れば、
すぐに正体がバレてしまう。
また
高雄のことが浮かんだ。
最初の踏み込みはゆっくりだ。
そうだった。
今日は、僕は高雄だ。
少しずつ踏み込もう。
節目がちに助手席の方を
ちらっと見ながら、
やっと、
喉から搾り出した。
「あ、暑かったよね」
女性はすぐ、
答える。
「暑かったね。
ちょっと待ってただけなのに、
すごい汗かいちゃった。」
パタパタと
手で仰ぐような素振りをしているのが
目の端に映る。
女性の
化粧品なのか
整髪料なのか、
香水なのか、
均にはわからないが
いい匂いが伝わってきた。