はじまり|夫婦のための連載小説 #01

夫婦というのは、薄氷(はくひょう)の上を歩く道である。
元々は他人だった二人、
どこかへ続くであろう、不安定な道を進んでいく。

均(ひとし)は忙しい毎日を送っているが
朝、子どもを保育園に送っていくのは均の担当だ。

妻の香織はその時間にはもう家にはいない。
後ろに残業ができないから前に残業するしかない。
前なのに残業とはこれいかに?言い換えれば前業だ。
なんだか修行のような響きであるが、
人生の苦難のようなことで考えるとあながち間違ってはいないのかもしれない。

6時には家を出て会社に7時には付き2時間の前業を行なっているのだ。
夕方6時に子どもを迎えにいくには、会社を5時には出ないといけない。

だから、朝の送りはパパの仕事なのだ。
同じように朝はパパが送ってくる家庭は他にもいくつかある。
しかし、多くの家庭は朝もママ、帰りもママだ。

その様子を見て、
自分は子育てに十分コミットできている、
自分は、世の中平均のパパより、
少し上のパパだと思う、と小さく誇りに思っている。

均は朝8時に子どもを預けると、
大急ぎで自転車を漕いで駅まで走る。
駅まではなだらかな登り坂だ。
電動自転車は高かったが役立つ。

大急ぎで駅へ向かって坂を漕ぐ。
電気のアシストを受けながら、
それでも汗だくになって
ワイシャツが背中に張り付く。

勢いよく通りすぎた駐車場の
フェンスの影、
何かが
気になった。

急いでいたので
一度は
そのまま
通り過ぎたのだが。
しかし、
何か気になる。
目の端に
引っかかった影が
消えない。

均は一旦、
漕ぐのをやめ立ち止まった。

電動自転車を押しながら坂をくだる。

駐車場には、
鈍く光るワインレッドの車が止まっていた。
音は全くしない。
海外製の電気自動車か何かだろう。

均は、急に自分の電動自転車が
恥ずかしくなった。

この車が珍しかったのだろうか。
この音がしないこの車が。

なんだったのだろう、
気のせいか、
と、
また坂登りへ戻ろうとした時。

車のドアが開いた。
男が降りてきた。

男の顔を見て
血の気が引いていくのを感じた。

男は、
あまりにも
自分にそっくりの
顔をしていたからである。

男も均に気づいた。

男は少しびっくりした顔をしたが、
落ち着いた声で

「ずいぶん、俺に似た顔をしているね」

真夏の駐車場は40度に迫ろうとしてるが、
背中を冷たい汗が流れ、
氷の海に放り込まれたような
寒気を感じた。

「は、はい。」

焦って、
うわずった声で
均は返事をした。

顔も同じだが、髪型も同じだ。
背丈もほとんど同じだろう。

「に、似てますね・・・、
えーと、
あ、
はじめまして、
均といいます。」

均は挨拶をした。

男はニコリと笑って、
手を差し出した。

均はきょとんとした

「握手だよ。はじめまして 均さん。」

自転車のハンドルを
握りしめていた手は
汗でびっしょりだった。
ズボンで拭いた。
しかし走った汗と
男を前にした冷や汗で
ズボンもびしょびしょだった。

差し出された手を
そのままにするわけにはいかない
あきらめて
そのまま握手した。

「俺は、いや、
私は高雄といいます。
はじめまして。」

ゆっくりとした
やさしい声だった。
しかし、声もまた自分と同じだった。

骨格が同じなら声も
似てくると聞いたことある。
こんなに似てるから
声も同じなのだろう、と
自分を納得させた。

高雄の手は熱く、力強かった。
均は大人になってから
はじめて握手したかもしれない、
と思いながら、
なんとか強く握り返した。

高雄と名乗るそっくりな男は
均の顔を近くでまじまじと見つめる。

均もまた、
まじまじと見つめ返す。

鏡でもみているような。
左右が違うから
鏡ともちょっと違う。

違うのは
顔だけではない。

表情も違うと
感じた。
高雄からは自信を感じる。

服装もラフだ。
それでいて
気持ちよさそうな
ポロシャツを着ている。

仕立てのいい
ブランドを着ているのが
すぐにわかる。
有名なブランドのものだろう。

この暑さの中でも
涼しげだ。

ふと
ドッペルゲンガー、
というやつなのだろうと
思った。

世界には
自分と瓜二つの顔の
人物が存在するという
逸話だ。

しかし
ドッペルゲンガーに
遭遇した人物は
死ぬと
言われていることを
均は
ぼんやりと考えていた。

握られた握手はそのままに
高雄がふと口を開いた

「私たち、
取り換えないか?」

(つづく)