平日昼間、中年の1人の男が日差し照りつけるカラオケ店の前に立っている。
たまの休みでとりあえず街まで出てきた。本屋でも覗こうかと思ったがまだ時間も早く開いていない。通勤する人達が足早に通り過ぎるだけである。
とはいえ、もとより中年男には、職場以外にはどこにも行く当てなどない。
お酒もダメ、ギャンブルもダメ、たばこもダメ、アプリもYouTubeも、スマホもダメ。
全部、健康に良くない。そうネットニュースに書いてあった。
じゃあ何が健康に良いんだよ、と男は思う。
「歓迎!カラオケ1時間だれでも無料」の文字。
誰でも無料なら自分のようなおじさんでも無料だろう。
ドリンクバーも300円と言うことで、チェーンのコーヒーショップに入って時間を潰すのと変わらない。
それならばと、勇気を持って自動ドアをくぐる。
「えらっしゃいませ」
滑舌の悪い挨拶で出迎えられる。小汚い店内。
小太りで、黒縁眼鏡をして、学芸会の衣装のような黒いテロテロのチョッキをきつそうに着込んだ中年の男が出迎える。
えらく辛気くさいやつが店員だな、男はそう思った。
「えらく辛気くさい客が来たな。ここは中年男が一人でくるようなとこじゃないぞ」
自分が思わず声に出してつぶやいてしまったか、と思って男は驚いた。
しかし、おかしい。
「辛気くさい客って、俺のことか!?」
男は驚いて店員をにらみつける。
店員は照れくさそうにモジモジしながら
「キモい客が来るとトラブルになって困るから、そういう時は追い返していい、って店長が。」
「店長が、じゃないよ。君、それが客に対する態度か」
「いや、まだ客じゃないし、っていうかキモいから出来れば、帰って欲しいし」
「外の看板に誰でも無料って書いてあったぞ!」
男はいらだちで思わず声が大きくなる。
「誰でも、にキモいおじさんは入らないんだよ。若い子や金持ってる人なら誰でも歓迎ってこと」
「なんなんだよ、この店は。ふざけんな」
こんなにも大きな声で叫んだのは久しぶりだ。
男は怒り、呆れ、自動ドアへ振り返り、立ち去ろうとした。
「逃げるのか?」
店員に呼び止められる。
いちいち癇にさわる男だ。こんなにイライラしたのはいつぶりだろうか。
男は振り返る。
「は?帰って欲しいっていったのはそっちだろ。なんなんだよ、こっちは忙しいんだよ、ふざけないでくれ」
この店員は多分頭がおかしいのだ。
変な店に入ってしまったことを男は後悔した。
店員が、ニヤニヤしながら男を見つめる。
「忙しい中年男が、朝からカラオケに来るわけないでしょ。
ねえ、勝負しないか?」
「勝負?」
おかしなことを言い出す。
「ここはカラオケ店だから、そうだなあ。カラオケの採点で競い合おう」
「なんなんだよ。その勝負に何の意味があるんだよ」
男はこのあぶない店員から離れないといけない、そう思った。
でも聞いてしまう。
「賭けるんだよ」
「何を?」
「自分の人生でもっとも大事なものを」
店員は、さも当たり前というような顔で、男の目の奥を見つめた。
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