学び、考えること、
体を動かす、具体的に手を動かす
アウトプットとインプット、
これらを通じて自由を目指している。
自由になる、
とは思っている以上に難しいことだ。
何も考えないことが自由ではない
私たちは考える時、
言葉が必要なのだ。
頭の中に浮かんだ言葉で思考している。
言葉から自由にはなれない。
しかも、その言葉が、
すでにいろんな権力や価値観のもとに作られたものである。
その言葉を使用して思考することは、
すでにその権力や価値観の影響を色こく受けてしまうわけである。
なので、言葉を使う、言葉を吸収するときに
すでに注意が必要なのだ。
汚い言葉使いや、差別的な言葉を避ける理由はここにある。
しかし、もっと構造的な差別が、
言葉や社会の中に強く根ざしている。
これは、汚い言葉使いよりも
もっと複雑であり文化的だったりするからタチが悪い。
そういった固定観念から自由になるのは非常に難しい。
それらは人種や、ジェンダー、社会階層などの差別に繋がっている。
学ぶほどに不自由になっていく
学ぶほどに、がんじがらめになる。
こちらを立てればこちらが立たず、なことばかりだからである。
気にするべき、正解、というものを求めて
考え、学習するほどに、
なんと、難しくこんなにも不自由なのか、と愕然とするのである。
しかし、
それであれば、何も学ばないであれば
自然に振る舞うことができるのか。
それもまた間違いである。
それは、わがままで幼稚なだけであり、
誰かを傷つけていても、無知なので気づかない、
という子どものままであるからである。
自分たちを取り巻く価値観や時代の空気との中で、
不自由になっていくことに自覚的になることが
結果、そこを打開する第三の案を模索し自由に一歩近づいていくのである。
自由に生きるとは
人間は社会的な生き物であるとした時に、
社会を成立させ、他者と共存し
自分の自己実現も達成することが自由に生きる、
ということだと考える。
自分の自己実現の達成が、
すでに矛盾や差別を含んでいることも多いにありうる。
自分のやりたいこと、
その欲求、そのものを疑うところからまず始める。
その時に大切なことは、
頭で考え続けるのではなく、
人との衝突したり、
遠くへ旅に歩いて行ったり、
自分の考えを、稚拙ながらまとめ続けたり、
頭と手と足と、まあつまり全身を動かして、
向き合っていく、ということなんではないかと思っている。
編集後記
9月中旬で33度あると流石に体がこたえますね。
風邪も流行ってますからご自愛ください。
a new thing a day
はじめて消防署に入りました!
署内は残念ながら撮影禁止です。