今日はすごい簡単なのにものすごく難しいメソッドです。
悲しいことがあった時、ただぽろぽろと。またはワンワンと泣いてみよう、というメソッドです。
映画を見て感動して涙が流せるか
まず一人で見ましょう。
それで涙が流せるか。
ここが第一ステップです。
(自分好みの泣ける映画をチョイスしてね。もちろん漫画でも、小説でもいいです。)
静かな部屋にこもってリラックスして楽しみましょう。
これで涙が出ないなら重傷です。
しっかり体を動かす→睡眠をとり→栄養・水分をしっかりとって心身を整えてから
再チャレンジしましょう。
誰かと一緒に映画を見て感動して涙が流せるか
かなりハードルがあがりましたね。
でも画面を見つめていればスクリーンを見つめていれば、
みんな泣いてますし。
大丈夫です。
多少鼻をすすって、涙を拭いたりしてるので、
横から気配はわかりますが顔を見られることはありません。
誰かとTVを見て感動して涙がながして「感動したね」といえるかどうか
ここまでくると結構、素直レベルの強者かなと思います。
自宅で一緒にテレビを見て、番組でも映画でも何でもいいんですが、
つまり映画館で暗いというシチュエーションがなく
明るい部屋でテレビをみて
その素直な思いを、その場にいる家族や友人に伝えられるか。
でもそんなことが出来たら、素敵じゃないですか?
なんで感動して涙していることを恥ずかしい、と隠さなければならないのでしょうか。
私はこんなことに感動した安い男(女)だと思われたくないから?
感動の上下が激しいと思われたくないから?
理由はいろいろですが、その言い訳は自分の感情をあらわにしてしまうことへの、恐れと恥ずかしさでしょう。
誰かの話を聞いて共感して涙を流して「つらかったね」と寄り添えるかどうか
さらに上のレベル。
プロのコーチでも一流の部類ではないかと思います。
ところで私たち大人の多くは、そんなに泣かないでしょう。
ましてや自分のことで無くことはあるでしょうか。
そういうのは子どもや思春期の10代のころにおいてきた、と思うんじゃ無いでしょうか。
でも40代になって誰しも心に傷の一つや二つはもっています。
それを自分でもわからないように隠して暮らしているわけです。
それがひょんな事から、言葉として、エピソードとして伝えたときに
「そんなにつらいことがあったんだね。つらかったね。」
と目の前の聞き手がぽろぽろと泣いていたら。
「え、そんな大変なことじゃないよ。ちょっとしたことだよ。」
と言い訳を重ねるかもしれない。
でもそんなぽろぽろと泣いている人をみたら、
私も泣いてもいいのかもしれない、弱音をはいてもいいのかもしれない、と思うのである。
「私も悲しんでもいいのかもしれない。私もほんとうはつらかったのかもしれない」
と口にできるのである。