食わず嫌い。
私は食べれないものは少ないです。激辛なものや、ゲテモノを除けば、香辛料のハッカク・みたらし団子・歌舞伎あげが苦手で、ほかはまあなんでも食べられます。
今日はそのほかの食わず嫌いについてです。
やっていてもおかしくないのにやっていないもの
「鈴木さんやってそうなのにやってないんですね」と言われるものです。
その代表が「写真・カメラ」です。
プロの現場で20年。自分で撮影ディレクションをやってます。
ファッション撮影の現場を毎月ディレクションしている時代もありました。
何をどうとるか決めて、フレームまで決めても、自分で撮ることはありません。
それはカメラマンやビデオグラファーへのリスペクトからです。
プロが出来るものはプロに頼むべきだ(逆にいえばそれ以外が自分の仕事だ、ともいえる。)と考えているからです。
でもこれはほかにカメラマンがいる時の話です。誰もいなければ自分で何でもやります。
これまでも商業用の写真を自分で撮ってるケースも多数あります。ここまでは仕事としての話です。
個人的にカメラをやるのを避けてきた
創作活動や趣味としてカメラを撮るか、というと避けてきたのです。
「なんかめんどくさいな」と。
でもそこをひもといて行くと、それだけじゃないのです。
「なんかめんどくさいな」にはたくさんの理由が隠れているのです。
値段が高そう、場所をとりそう、あつめてしまいそう
やらない理由はいろいろ思い浮かぶものです。
しかしちょっと調べたりかんがえればすぐ解決してしまいます。
中古で買えばやすい。場所を撮らないカメラもある、レンズ交換式じゃなくたってカメラはある。
極論「写ルンです」でもスマホでもアーティストとして活動できるでしょう。
だから、カメラを買わないといけない、というのもまた言い訳なのです。
しかし、それよりも深刻な理由があり、こんなことは些細な話なのです。
10万円でも50万円でも、やりたければ普通に買ってるからです。
表現したくない、恥ずかしいのである
説明っぽい撮影は出来るのだけれど、
撮影するっていうのは結構「表現」なのである。
その写真からいろんな気持ちや考えが現れてしまうのである。
それを見られるのが恥ずかしいのである。
文章やトークにももちろん現れる。
でもそれは訓練してきたし、自分の心の出し具合をコントロールできるのである。
しかし、写真やイラストはその心情がそのまま現れてしまいそうで、はずかしくでできないのである。
「こんなに考えてることが現れてしまうのだなー」と思うのである。
さらに、人物を撮りたくない
人物を撮る、というのはその人物とのコミュニケーションである。
その人のこともよくわかるし、その人を通じて、その人のことを自分がどう思ってるかも現れてしまうのである。
それもまた、もっと恥ずかしいのである。
男性を撮るのも、女性を撮るのもすべからく恥ずかしく思ってしまうのは、そういう友情や愛情が絵に表れてしまうからである。
言葉を介さない気持ちのコミュニケーションがそのまま現れてしまいそうで、とにかく恥ずかしいのである。